1859年(安政6)年に神奈川・長崎・函館の3港を開港することによって開始された貿易では、生糸輸出がたいへん盛んに行われました。当時、欧米では蚕の病気が蔓延し、生糸が不足していたためです。一方で国内の生糸生産は品質もまちまちであり、粗製濫造状態になってしまいました。こうした生糸が次々に各国へ輸出されるに伴い、品質の悪さが指摘されるようになりました。政府は「生糸の輸出振興」で貿易による外貨獲得を目指しました。そのためには欧米の生糸の品質に劣らない製品を生産する必要があります。そこで、優れた品質の生糸を生産するための模範製糸場設立が計画されることになりました。この模範製糸場で、外国人技術者による様式製糸の指導と伝習工女の募集や、様式機会製糸の導入による近代生産方式の確立をはかろうとしました。
 政府は官営模範製糸場の創立責任者を尾高惇忠、首長にフランス人のポール・ブリューナを招き、建設候補地の視察を開始します。ポール・ブリューナらは、秩父(埼玉)、富岡・下仁田・松井田(群馬)、追分・御代田・佐久・小諸(長野)方面を踏査し、富岡を最適地とし1870(明治3)年10月に建設が始まりました。
  • 製糸生産のための原料となる良質の繭が周辺の養蚕地域から得られる。
  • 製糸に必要な良質な水が、付近を流れる鏑川から得られる。
  • 蒸気機関を動かすための燃料となる石炭が得られる。(亜炭が現在の高崎市寺尾町にあった金井炭坑から採掘された。)
  • 広大な敷地が確保でき、地域住民も製糸場建設に同意できた。
 製糸場の設計は、フランスから横須賀製鉄所の建設のために招かれていたバスチャンが担当して短期間に完成させました。これは、建物の基本的な構造を横須賀製鉄所のものと類似させたためと考えられます。この設計をもとにブリューナーはフランスへいったん帰国し、技術者、製糸機械、医師らを雇い入れ再来日します。
 歴史的・文化的に大きな価値を持った富岡製糸場ですが、ここで行われる「製糸(繭から生糸をつくる)」は絹産業の一部にしか過ぎません。その前後には「養蚕」(桑を育て、蚕を飼い、繭を作る)、「織物」(生糸を染め、織り、反物に仕上げる)があります。群馬県は江戸時代から現代までこの三業がバランスよく発達した地域です。しかもその三業は常に技術開発の先頭に立ち、各産業の発展に重要な貢献を果たして きました。
 富岡製糸場の近くにも、群馬県独特の越屋根をつけた巨大な養蚕農家群が点在し、蚕種(蚕の卵)を保存した日本最大の岩室(風穴)が、さらに地域独特の座繰製糸組合の巨大な本社本館も保存されています。また、近隣の新町には日本初の官営絹糸紡績工場「新町屑糸紡績所」が、境町には欧州への蚕種輸出の中心だった島村地区に大型養蚕農家群が、桐生市には鋸屋根の織物工場群が現存します。世界遺産の登録のためこういった一連の文化財を複合的に組み合わせ、地域の歴史的魅力をより高める努力が続けられています。

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NPO法人「富岡製糸場を愛する会」